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inose_mikadoの検索結果

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    RT @inose_mikado: 一九一七年は、ロシア革命の年だった。二十八歳の堤康次郎が軽井沢で土地購入に成功したのも、十六歳の皇太子裕仁が、初めてゴルフクラブを握ったのも、同じ年の出来事であった。【ミカドの肖像】2018-08-07 22:43:02 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 世界一の大都会東京には”空虚な中心”がある、とはじめて指摘したのはフランスの哲学者ロラン・バルトであった。その皇居という不思議空間が発する奇怪な電波によって、丸の内東京海上ビルはその頂点を削りとられた。【ミカドの肖像】2018-08-07 22:42:12 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 天皇が、あの皇居のなかでゴルフに興じていたという事実など、庶民は知るべくもなかった。天皇の神格化は、そうした事実を密閉することで加速させれていく。有名な美濃部達吉の天皇機関説が攻撃されたのは昭和十年のことだから、ゴルフをやめた時期に近い。【ミ…2018-08-07 22:38:56 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 廃墟になろうとしている東京で食糧もままならず、命からがら逃げようとしている人びとに逆行して土地を買おうとするその執念!そのおぞましさに強い嫌悪感を覚えたが、いっぽうで、堤康次郎という男の推し量りがたさに強く魅きつけられてもいた。【ミカドの肖像】2018-08-06 10:39:30 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: ヒトラーのつくりあげた組織は、ちょうど正方形の真ん中をつまんでピラミッド型に持ち上げたように立体的だった。日本型ファシズムでは、布は広げられたままで頂点がない。平面的だが、代わりに荒い網目のひとつひとつが相互にひっぱりつつ振動を増幅して伝えあ…2018-08-06 10:36:27 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 僕たちは、しばしば、ひとつの間違った常識に囚われている。戦前は軍国主義、戦後は民主主義という定式のなかで、昭和二十年以前を暗い灰色のはるかかなたの風景として置き去りにしてしまうのがそれだ。【ミカドの肖像】2018-08-05 21:30:09 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 敗戦は、確かに時代の節目だったが、それを強調するあまり、大正六年以降、現在まで連続した曲線のなかでうねっていた事実も、見落とすべきではない。天皇という貴族の頂点に立つ者と、大衆の欲望を直截に代表する堤康次郎の軌跡をなぞってゆくと戦前から戦後に…2018-07-28 03:08:01 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 僕たちは、しばしば、ひとつの間違った常識に囚われている。戦前は軍国主義、戦後は民主主義という定式のなかで、昭和二十年以前を暗い灰色のはるかかなたの風景として置き去りにしてしまうのがそれだ。【ミカドの肖像】2018-07-28 03:07:55 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 祭事や歌詠みに明け暮れていた一族とその藩屏たちは、錦の御旗として、政治的マキャベリズムの渦に巻き込まれた。”一君万民”という祝福の衣を身に纏わされたとしても、エデンの園を追われたことには変わりない。彼の地を離れることによって、天皇は国家という…2018-07-26 03:06:53 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 天皇家が京都という安住の地を”追われた”その流れの最初の一撃が、明治初年の明治天皇の東上であった。まだ十六歳にすぎなかった明治天皇が、八瀬童子の担ぐ鳳輦に鎮座して江戸に入ったのは慶応四年(明治元年)の十一月のことだった。【ミカドの肖像】2018-07-26 03:06:51 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 心中の場所に軽井沢が選ばれたところなど、時代の思潮を感じる。心中という行為は日本的なものだが、軽井沢という舞台が、近松的世界とは異なる新鮮な印象を世間に与えた。有島の心中は、モガ、モボ風俗の先触れとして理解されていく。【ミカドの肖像】2018-07-25 00:12:02 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 第一次世界大戦の終結がもたらしたものは、単にドイツの敗北ということだけではなかった。貴族社会が同時に凋落したのである。その象徴的勢力が、米国とソ連であった。双方とも大衆による政治を、国是としていた。【ミカドの肖像】2018-07-25 00:11:57 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 堤康次郎が、沓掛に眼をつけ、旧軽井沢より一ランク下の顧客を相手に”五百円別荘”を売り出そうとしたのは「大衆社会」の到来を予感していたからであった。大正六年という年を、西暦で見直すと堤康次郎という野心家のモティーフも、わずかながら視えてくるよう…2018-07-25 00:11:07 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 一九一七年は、ロシア革命の年だった。二十八歳の堤康次郎が軽井沢で土地購入に成功したのも、十六歳の皇太子裕仁が、初めてゴルフクラブを握ったのも、同じ年の出来事であった。【ミカドの肖像】2018-07-25 00:11:03 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 大正十五年十二月二十五日に大正天皇が崩御し、元号が昭和にあらためられた。わずか七日間の昭和元年が過ぎ、翌昭和二年二月七日午後から八日の早朝にかけての大葬の儀式は、新宿御苑で行われた。臨時の葬儀会場が、ふだんゴルフ会場であったというのは、奇妙な…2018-07-25 00:09:43 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: ガーデンシティは、日本では「田園都市」と訳されていた。やがて東京都大田区田園調布、当時の東京府荏原郡調布村は、ロンドン郊外の田園都市レッチワース建設の理想を借用することになる。明治の偉大な実業家渋沢栄一の四男秀雄は、このとき弱冠二十七歳だった…2018-07-20 23:44:56 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: チャップリン髭の渋沢秀雄は帰国すると大手町の日清生命保険ビルの一室にある田園都市株式会社のオフィスで、得意満面で電話の応対をしていた。……啄木にとっての田舎は暗い日本のネガだが、秀雄にはデンエンが明るい陽光のように都市のゆくてを照らしていた。…2018-07-20 23:44:36 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: ハワードがロンドン郊外レッチワースで試みたのは、住宅と工場と農場が一体になった自足したユートピアである。ところが、秀雄が思い描いた街は、サンフランシスコの高級住宅地セントフランシス・ウッドのように美しいだけのベッドタウンではなかったか。【土地…2018-07-20 23:44:20 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 渋沢栄一の四男秀雄が、田園都市の視察旅行として九カ月間欧米十一ヵ国を巡り帰国したのは大正九年(1920年)五月であった。二代目のお坊っちゃんらしい素直さで、旅先で心象に焼き付けた光景をそのまま移植して田園調布をつくった。【土地の神話】2018-07-20 23:43:34 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 僕たちは、しばしば、ひとつの間違った常識に囚われている。戦前は軍国主義、戦後は民主主義という定式のなかで、昭和二十年以前を暗い灰色のはるかかなたの風景として置き去りにしてしまうのがそれだ。【ミカドの肖像】2018-07-20 15:03:18 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 自分たちが”中流”であるという自己認識は、じつは自己認識ではない。すべてが中流であるならば、他人との区別がつかない。自己は他人のなかに埋もれ、自己でなくなる。【ミカドの肖像】2018-07-14 20:21:04 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: MIKADOという名のフレンチロック・デュオ、丸の内のオフィスの頂点を削りとられた高層ビル、宮廷ホームとスジ屋たち。僕たちが捜しているミカドは”視えない肖像”として、日常生活に溶解し拡散している。さらにに欲望のメカニズムに転化しているのである…2018-07-14 20:20:58 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 「御大喪」と「御大典」に加えて、新しい元号の制定、恩赦、それらが重なり合いながら、国家的祭儀という同一平面で人びとは、悲しみはなくとも悲嘆を装い、喜ばしいことはなくとも狂喜し、地殻変動のように、溜め込まれたエネルギーを蕩尽しつくすのである。【…2018-07-04 23:39:06 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 時代の節目は、予定調和としてではなく、天皇崩御という個人の肉体の消滅とその鎮魂の儀式によって。忽然と訪れ、洪水のように過去を洗い流しながらよりいっそう過去を心に刻ませる。【ミカドの肖像】2018-07-04 23:38:59 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: こうして、昭和二年二月の東京での「御大喪」と、国家の祭儀がつづいた。人びとは、その祝祭のなかで、時代の節目を自覚するのである。【ミカドの肖像】2018-07-04 23:38:45 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 大喪という祭儀が、皇室の家内法から国家的規模へ拡大し位置づけられていくのである。八瀬童子は地の利を活かして、皇室の祭儀などの雑役に従事していたが、次第に儀式の中心は京都から東京へと移動していた。【ミカドの肖像】2018-07-04 23:38:34 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 大礼については、旧皇室典範に、京都で行うことが明記されていたが、大喪については、同様の条文が見当たらない。西から東への流れは、明治天皇の大喪で明確な姿をともなって顕在化した。【ミカドの肖像】2018-07-04 23:38:21 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 祭事や歌詠みに明け暮れていた一族とその藩屏たちは、錦の御旗として、政治的マキャベリズムの渦に巻き込まれた。”一君万民”という祝福の衣を身に纏わされたとしても、エデンの園を追われたことには変わりない。彼の地を離れることによって、天皇は国家という…2018-07-04 23:37:52 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: 天皇家が京都という安住の地を”追われた”その流れの最初の一撃が、明治初年の明治天皇の東上であった。まだ十六歳にすぎなかった明治天皇が、八瀬童子の担ぐ鳳輦に鎮座して江戸に入ったのは慶応四年(明治元年)の十一月のことだった。【ミカドの肖像】2018-07-04 23:37:45 by 猪瀬直樹/inosenaoki
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    RT @inose_mikado: テレビはたとえ右にしろ左にしろ、人々から思惟を抜き取り、観念を無化にするという意味において、イデオロギー的な集中力を拡散させる方向に機能するのではないか。そのあたりの考察は、おいおい明らかにして行こう。(欲望のメディア)2018-06-29 01:42:14 by 猪瀬直樹/inosenaoki